スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

版元無視![2]

直販の委託で、納品・回収は当社負担である。書店にはカケラのリスクもない。
どう売るか、そのために平台か棚かは店の権限であるから不問にするとしても、
この態度に熱意は感じがたい。
これを書籍におきかえても事態はそうは変わらない。
それどころか「売れますか」と実に冷ややかだ。
じかに確認できる地方の直販にしてこれだから、取次の大小を問わず
全国販売の実情は推して知るべしだ。

全国の書店に並ぶとうたう中央の自費出版では以前、気付いた作者の
「話が違う」というクレームが続出した。
これには、版元の誇大コピーと配本実態の非公開という問題のほかに、
前述したような書店側の姿勢・売り方も災いしていたにちがいない。
が、これを書店側にたってみれば、大手版元・取次の配本を最優先せざるをえない事情にもよろう。
こういうトライアングルの悪循環がさらに延々とつづくかのごとき様相に
出版環境はおおわれている。
これを断つには、既成・従来型の破壊しかあるまい。挑戦の模索が始まった。

スポンサーサイト

版元無視![1]

たまたま、ある大手チェーンの書店に寄った。
販売後1カ月の雑誌を見たら、平台にも棚にも一冊として無い。完売?まさか!
今まで良くても60%だから、奇異におもって店員に尋ねた。
完売どころか売場の奥にある在庫置場にしまってあった。

理由は表紙にある見出しの一語「入園準備」が終わったからと言う。
4、5月が企画のメインなので抗議した。
よもや見分に来るとはおもわなかったであろうその店員は、
「またおきます」と言いながら持ってきた。

どうやら2週間ほどでひきあげたようだ。本部とそんな期間では取引していない。
もちろん店からは何の相談も連絡もなかった。これでは版元はたまらない!
もちろんこんな店はわずかだが、これに近い不愉快な事例はいくらでもある

無料紙誌も出版か?

崩壊現象をもっとも象徴するのは、無料紙誌の沸騰であろう。いまや首都の出版東京村をも席巻する勢いである。無料紙誌は俗にフリーぺーパー(以下FP)と言われ、各戸配布や自由に持っていける場所に置く方法で出回っている。あらかたは中綴か二つ折だが、一部には冊子もあって出版物に劣らぬ出来映えのものも見られる。
内容も昨今はコンテンツや制作が進化してきたようで、出版顔負けのFPさえあるという。これには出版系の進出や人材の流出も寄与しているだろう。
20年前には散見されるほどであったが、気がつけば巷はFPの洪水である。
私は20年ぐらい前に中日新聞系のFPに関係し、約10年前から2、3年ほど有料と無料を併用した雑誌を出版した。いっとき無料紙も出した。たしか当時はFPという言葉は無かったように記憶するが、出版発の意識が強かったため、FPの追求はむろん市場の流れを考えるところにはいかなかった。それが今では、遅きに失した観もあるがFPに力を入れはじめた。併用あるいはミックスよりもさらに一歩踏み出した展開を考えるところへきている。
このFPを出版と言って憚らない人もいる。その人の出自がFPであるにせよ、これがすんなり通る世情になった。
FPは、主が広告で、従の記事が充実してきているといっても、複数の企業PRの代理媒体がその本質であろう。それを自費出版に倣えば、正確には無料企業PR情報紙誌と呼ぶべきだ。がそうは言わず、FPなのである。さらに出版とも言われだした。
お金の点では、出版の雑誌の収入は広告と販売、FPは広告のみ。発行責任は両方ともその収入先に対してとなる。責任の大きな違いは読者にあると言っていい。それは出版の企画と自費の本来的な違いに近い。
とまれ、FPに倣えば、自費は自由な出版と言うべきだろう。従来型は超え、破るしかない。革命!

ある若者の死

春浅き伊那谷の土に君還る
なぜ死に急ぐか若き血潮

野辺送りの時にうかんだままを詠んでみた。若者は息子が高校で野球に明け暮れたときの仲間だった。突然の訃報をはじめは、突発的に起こった身体の異変が原因らしいと聞いた。参列までもなかろうと思ったが、翌朝、自殺と知った。やや迷ったが、5年前の残影にひかれて出かけた。

身長が190cmもあった。体格だけでなく発する雰囲気がすこし大人びていた。気も意思も息子はむろん他の仲間より強そうに見えた。副キャプテンとしてまとめリードする力もあった。
そんな印象と死に落差があった。そこが気にかかった。

無断欠勤していたという。無断はよほどだ。会社で何かがあり、何かで悩んでいたとしても、みずから命を絶つとは尋常ではない。尋常ならざる事態や事故・トラブルでもあったのだろうか、あるいはそれにまきこまれたか。こう想像せざるをえないが、事実はいっさい解らない。

勤めていた東京の会社からは誰も来なかった。弔電のみ。どんな会社か何も聞かされなかったが、それにしても奇異であった。この事実が死の真相を知る手がかりになりそうだ、と思った。
が、これは感想にすぎない。若者の不運の死を 悼みながら、
ふと彼の短い23歳の人生を「メモリアルBOOK」として遺せれば、と想った。

中学・高校・野球部の同期が大勢集まった。悲しみの嗚咽が最後まで止まなかった。恩師で「お寺あそび」を出版してくれたばかりの宮脇瑞穂先生の弔辞は、沈着なうちに悔しさがにじみ胸が痛んだ。
若者は霊峰駒ケ岳を望む小高い丘の上に眠った。あたりには、満開の白梅とほころびはじめた一本の桜が、千年の春を告げていた。

出版の崩壊現象[2]

カテゴリーから言えば、企画ないしは商業と別の
お金を基準にした分類が定着したぶんだけ、まちがいなく出版の地位は
崩れたと見ていい。一般にはそうは見えないかもしれない。
それを覆い隠すヴェールがある。

新刊ラッシュだ。

市場のニーズから生まれた現象ではない。
あくまで東京出版村の裏事情による。

売れないため出し続けないと生き残れない。
これを取次と大型書店がスクラムを組んでバックアップする。
取次は金融機能まで発揮して支え、書店は優先的に棚を提供して協力する。
政官業の癒着にも似た東京村の構造を背景に新刊バブルは続く。

地方の小出版など入りこむ隙間もない。
本のライフサイクルの超短命化、企画の枯渇、作家不足、
食えない作家・ライターの蔓延、安直なビジュアル化、
クリエイターの質低下、下請けたたき、地域書店の壊滅……、
あまりの惨状である。

出版の崩壊現象 [1]

企画出版は言い換えれば商業出版である。
一般にはこの冠をとっぱらった形態が出版とよばれているのである。
ついでだが、企業がPRのために出版する場合には企業出版と言う。
販売しないものもあるので、これも自費と同様に曖昧だ。

企画を立て原稿料を払い、販売のリスクも背負って販売し良否を世に問うのが本来の出版であろう。
ところが、原稿料は献本でお茶をにごすやり方も見られる。
それどころか、自費を企画として出すところさえある。
しかも、全国の書店に並ぶとうたう中央の自費出版が、
その誇大と虚偽がばれてもなお健在だ。

健在というより拡大といったほうが適切だろう。
市場の一角を占めるほど活況で、団塊のリタイア後はさらにニーズが増えると期待されている。
これをどう見るか。発展か崩壊かという視点にたてば、
明らかに従来型の出版は、すでにふれたカテゴリーの混乱に見られるように、崩壊寸前である。

結局は自費出版[2]

さらに紙媒体のため完成品が印刷と重なる地方ほど
この影響が大きいと思う。作るという点からいけば、
これに関与するものはだれでも参入できる。

が、そもそも出版は印刷とは異質の事業である。
過去、現在、未来の社会の姿を表現するのがその本道であり、
印刷は表現手段である。すくなくともそのすべてではない。

たとえばブログも印刷とは違った一つの表現方法と言える。
つまり、印刷もブログも、それ自体では出版とはならない。

自費出版は、きちんと出版のレールに乗せるべきだ。
たとえ少部数でも、読んでもらいたい、知ってもらいたい、
生きた証や創作を残したい。

この尊い想いと営為こそ出版の価値なのである。そこに買ってもらう、
売るという売買が成立する。これを原点にすえれば、
企画にしろ自費にしろ、おのずと印刷との境界は鮮明になる。
とすれば、言葉としても、自費というお金だけでくくる表現は
本質的に誤りと断言できる。
個性とか個人とか自分という言葉が未来にむけた表現としてふさわしい。

こんな意見はごく少数で、世の大勢からすれば異端となろう。
が、アウトローの異端にこそ真実がある、というのが
歴史の教えるところである。

やがて異端が趨勢になる。

結局は自費出版[1]

始めはかすかながらも夢を描き、評価に期待も膨らませて送ったものの、最後は自費出版となる事例をいくつも見てきた。
それでもお金があって出せればまだ幸せだ。
ただし書店にならべても遜色のない出来で満足できたかは別だが。

むしろ逆に予算的に無理で断念せざるをえないという原稿が相当数あるだろう。安くても百万、平均すれば二百万が中央のおよその相場なので、そうならざるをえない。
これは東京出版村のため地方に受け皿がないためでもある。
中央の地方蔑視は地方に力がないからだが、少数ながらも優能な編プロ
や出版はいる。

しかし現実には商売になりにくいので、これに力を入れられないというのが実態である。信州もそうだがどこも、自費出版は新聞社、印刷会社、広告・デザイン関連などが名乗りをあげ、業態を越えた過当競争になっている。

出版と印刷の垣根が不透明になるのはこの結果によるだろう。作者ひいては市場にとってこれはじつに迷惑なことだが、背景は東京出版村にある。
出版は文化を形成する重要な仕事とはいえ、敷居が高い、わかりにくい。また自費出版の定義がない。

これらがその原因をなす要素である。

全国販売の虚実[2]

 こんな環境下にある取次の取引条件はまことに厳しく高い。
地方のほとんどは仕方なく小さな取次を選ぶしかない。
それでも全国へ供給できればよいが、主は注文なのでそうはいかない。
あげくには大手2社経由でそのマージンまで獲られる。
 このスキームを破るのは容易でない。従来型の方法では 不可能にちかい。
企画はむろん、自費出版もしかり。
割り切って地域と可能な範囲の全国にするしかあるまい。
 壊すのはネットだ。

全国販売の虚実[1]

 企画の出版が困難なこともさることながら、
その本の全国への流通もまた厄介至極である。
地方発にとっては嶮峻なアルプスを越えるがごとき挑戦になる。
 大手取次2社と取引ができれば、そこそこは全国販売の格好はつく。
ただしそれも、取次の評価と判断しだいだ。
 もちろんどれだけ売れそうかである。
それによってどこまで全国に配本できるかが決まる。
といっても、最終的には売手の書店が販売の帰趨を握る。
ときに、配本で送った梱包のまま版元に返本された、
という今も後を絶たない話がそれをよく示している。 
 そういう書店は大型店ラッシュで沸く。
チェーン店を全国の都市部にはりめぐらす大手が市場を制覇しつつある。なかには
本の専門店ではないアメリカ流複合販売もある。それらの大型店に取次大手がどんどんながす。
 これをさばくのに書店は汗だくだくである。
大半は大手版元の売らんがための新刊ラッシュゆえだ。

夢を消す裏と闇

 ライターの原稿に感想さえ言えないエディターがざらだ。
 実務上の御粗末な事例はあげればきりがない。若い世代ほど読解力・文章力の低下はひどい。残った人は手持ちの仕事に追われて時間がない。たとえあっても、評価できる識眼のある人はそうはいない。
 ここまで判っていれば当然、東京で出したいなどと思うはずがない。一途にそう考えたばかりに裏事情がかき消されてしまった。裏や闇を知らない人はどうなるか、もう語るまでもなかろう。市井の人が企画で本を出すのは、作家になる志をもった人が賞をとるより難しいかもしれない。がいつかは、中央の尊大な鼻を明かしてやろう、という執念のような夢は私にもまだある。
 ただ、現在は自費出版でもいいと割り切っている。それでなんとか全国に狼煙をあげてみたいとも思う。やるからにはニューモデルだ。既成の自費出版は超えるしかない。
 本を出したいという人の力にもなりたい。
自費出版の新企画で応え、私の経験力・文章力・表現力のすべてを捧げてお役にたちたい。

 無料で相談に応じます。原稿があれば出張相談します。

編集力の低下は底無し

 編集の質の低下ははなはだしく、ずっと低落がつづく。
 優秀な編集者がいなくなったがためだ。この原因はあげて出版社にあるが、メディアの多様化と歯止めのかからない活字離れがその背景にあり、「出版大崩壊」と言われて久しい業界にあってはもはやいかんともしがたい流れである。数次にわたるリストラでべテラン編集者がどんどん去っていった社とも付き合った。たいがいはどこも真っ先に編集など制作部門を切る。そのうえで、辞めた人を外に囲み外注で使う。そういう人たちが編プロをつくったりもする。
 こういう例が多いが、ややうがって言えば、これは一種の変質した天下りだ。閉鎖性もきわまったという出版東京村の珍妙な人事現象であろうが、これで良質な文化の創出ができるはずがない。

時代錯誤の地方蔑視[2]

 著作も販売も信州に限定したものではまったくなかった。全国販売が小さな取次のために十分には全国にゆきわたらなかっただけだ。一信州人として書いたが、視野にも人物評価にも信州限定はカケラもない内容である。同時に出た信州発のこれぞ信州向けという一冊と比較すれば一目瞭然である。それも読んだであろうその記者の、所詮田舎者とでもいうような小馬鹿にした素振りに後味がわるかった。朝日か夕日か知らないが、中央の権威などには無頓着に臆せず言う私が癪に触ったのかもしれなかった。
 ジャーナリズムにしてこうだから、出版など推して知るべしであったが、一抹の期待に目が曇った。もっともこれは氷山の一角で、政治から万事がこの国は東京一極集中である。出版にいたっては東京村の全国支配といった観がある。地方自治とはいえ、これに風穴を開けたのが中央で育った田中康夫の県知事当選だった。
 これでは、賞をとるか、有名人か大学教授などの知識人というよほどの権威がないと出版はできない。版元ごとに小村ができていて、そこに作家やライターを牧場の牛馬のごとくかこっているから執筆を依頼されるはずもない。かくして、一般の作者が本を出したいと思えば、一縷の望みを託してあちこちに原稿を送りつけるという現象がおきる。げんに私もその寸前までいった。

時代錯誤の地方蔑視[1]

 売れるか否かは書店にならべてみなければわからないという経験則にしたがえば、その評価は引っこめてもいい。要するに、出版は元来がベンチャーで、その販売はバクチ的だからだ。が、その時の3年前から3冊も書いている実績さえ無視され、いわば門前払いをくらった。ライターとして売り込んだ大手もあったが、編プロにとどまらず出版界はおしなべて門戸が狭い。それゆえか、あるいは肥大化した一極集中が東京至上主義を生んだせいか、地方にはことのほか冷淡だ。
 もっとも、出版にとどまらないこういう前近代的な態度は「田中康夫の真相」の時にも痛感させられた。朝日新聞系「アエラ」の取材を受けたが、「よくできています」と若輩の記者に言われた。どことなくその抑揚には、誉めているようでいて見下すような陰影があった。案の定、2行ほどの紹介でかたづけられた。

評価さえ遠い夢

 これでいったん執筆を中止しようと決め、原稿は東京の出版社に売り込もうと考えた。4百字詰で4百枚のかなり大部な原稿だった。内容や文章には自信があったが、企画はどうか疑問だった。
 内容に自信はあっても、本として売れるとはかぎらない。自信のある人ほどその作品に思い入れが強く、それが災いして第三者の批評は拒絶してしまいがちだ。思いの丈につれて売れるという思い込みも生まれる。こういう落し穴に私もはまったことがあった。それで編集者の評価を求めた。
 実名は伏すが二、三の出版社に問い合わせた。ある知り合いの編プロの社長にも原稿を渡し検討してもらった。
 いずれも東京である。東京の出版社から出したかったし、そこでの評価を願った。ズブの素人ではないから敷居の高い名だたるところは避けた。企画だから自費出版の版元も外した。
 しかし、原稿の持ちこみや送付さえ断られた。検討にだまって3カ月以上かかるが、それも約束はできない。その社に関わりのある作家やライターの紹介なら考えてもいい。
 これが答えだった。評価どころか歯牙にもかけない返答を突きつけられてしまった。唯一「文章力がある」と言ってくれたのが編プロの社長だったが、それは今更言われずともこれまでに評価されていることだ。内容と売れるかについて批評してほしかった。
 結局のところ、何の収穫もない、あっけない結末に終わった。その後、企画の自己学習を積むなかで、またこの1年ほど幻○舎グループの個人出版という自費出版に関与してきて、私の受けた憂き目の底にある事情と背景が徐々に霧のはれるようにみえてきた。その当時はまだそれがふかい闇の中にあった。

ブログは自分出版[2]

 みなさんも見てほしいと想ってブログを書いているのだろう。
とすればそれが、日記風であれなんであれ、また小文とその更新であろうが、
その行為は間違いなく一つの出版である。

 自由な個人の自由な自費出版と言えるだろう。
 これはひとことで言えば自分出版だ。
 しかもネットはオープンだ。だれでも自由に見れるし、評価や批評もできる。
 ここに最近のブログ出版ばやりの秘密がありそうだ。
 むろん、たいがいは版元が責任を負う企画出版であろう。
 ところが、既成の出版はじつに不自由きわまりない閉鎖的な世界なのである。
 この壁にぶちあたった。

ブログは自分出版[1]

 3年間の中断後にブログを始めた理由はふたつある。
 ブログは執筆活動を伝えひろめるメディアになるかもしれないと思った。

 ネットとのリンクなどメディアミックスを追求しながらも、
古いアナログ人間のせいか紙媒体に縛られていた。その反面でブログへの誤解があった。

 私的な生活を公開して遊ぶ日記、と今にしていえば大笑いされてしまうような想像があった。
 とかく批判される出会い系サイトの類いかと錯覚していた節もある。
 これはブログを勧めてくれた友人の助言で解消した。
 TV報道によって実にたわいもなく洗脳されていたようだ。

Template Designed by DW99

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。